拝啓 加守田章二殿 備前焼ミュージアム

拝啓 加守田章二殿
 
備前焼ミュージアムであなたの展覧会をしていると聞き、127日夕方主人と行ってきました。
あなたの湯飲みやぐい飲みなどの作品は、画廊などで拝見することがありました。「きっちり作ってあり、きれいだな。そして、値段が高い。」というのが私の認識でした。
しかし、今回展覧会を見て、「すごい!」の一言、鳥肌が立ちました。
大阪で見た土器に感動してつくった、「灰釉鉢」 
わざと釉薬を削り土器のような風合いを出していた「大角皿」
力つよい、素朴、そしてモダンな模様の60年代の作品
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70年代になると波状が器全体にまわっている炻器(せっき)、本当に計算された波模様、形の筒や壺から、彩陶(さいとう)の長方皿、クジャクの羽のような模様の大皿、この皿の前から動けなくなってしまいました。
 
あなたは、毎年個展のたびに新たな作風を発表して、同じものは2つと作らないという姿勢などを知っていくと、
どんどんあなたの作品の計算された美しさが伝わり、もう1回最初から作品を見たりして、展覧会を楽しみました。
 
49歳という若さで、まだまだ作りたい、やってみたいことがたくさんあったと思うのに、、、そして、もしあなたが生きていたらこれからどんな作品を作っていったかと思いながら、、、でも、あなたの作った作品は、ずっと生きていくと思います。
 
またあの大皿に会いに「京都の国立近代美術館」を訪ねたいと思います。


本当にいい展示会でした。
3月までやっているので、行ってみて下さい。
会   期: 2018111日(木)~311日(日)*月曜休館
会   場: 備前市備前焼ミュージアム1・2階
主   催: 備前市備前市備前焼ミュージアム山陽新聞社
特別協力: 京都国立近代美術館
加守田章二は1933(昭和8)年に大阪府岸和田市に生まれ、京都市美術大学工芸科陶磁器専攻、日立製作所を経て、1959(昭和34)年に益子町道祖土(さやど)で作陶を開始します。精力的に発表を続け、数々の賞を得る中、1969(昭和44)年に静かな環境を求めて岩手県遠野にも築窯します。

 益子と遠野を行き来しながら加守田は毎年、個展のたびに新たな作風を発表しました。同じものは2つと作らない、強い信念に基づく独創的な作品に人々は魅せられていきます。昭和58年、49歳で亡くなるまで加守田の制作は続きました。

 本展では京都国立近代美術館収蔵品を中心に、昭和の陶芸史に新しい世界を切り拓いた加守田章二の世界をご紹介していきます。

 特に作風の変化をたどれるよう、1966(昭和41)年から1980(昭和55)年まで、各年の作品がご覧いただけます。また、昭和4050年代の個展で発表して以来はじめて一般公開される作品もございます。
 
 

加守田章二説明
大阪府岸和田市出身の加守田章二(193383年)は、20世紀後半の日本陶芸界に異色の才能を燦然と輝かせた陶芸家です。高校時代から美術の才能を発揮し、進学した京都市美術大学(現・京都市立芸術大学)で富本憲吉のもとで陶芸を学びます。卒業後、茨城県日立市での製陶所勤務を経て1958年に栃木県益子町に移り、翌年独立して本格的な作陶生活を始めました。1961年に妻昌子と共に日本伝統工芸展に初入選してからは、同展への入選を重ねるとともに数々の展覧会にも招待出品し、次第に陶芸家としての地位を確立します。1967年、陶芸界では初の高村光太郎賞を受賞したことで一躍注目を集めた加守田は、同年、伝統的な作風からの脱却を考えて日本伝統工芸展への出品をやめ、また、作陶に専念できる地を求めて岩手県遠野市を訪れます。そして、初めて手にした遠野の土こそが自身の打ち込める土であることを直感的に見出し、二年後にはこの地に陶房を築いて、あたかも修行僧のように制作に励みながら「曲線彫文」や「彩陶」などを始めとする代表作を次々と発表していきました。常に独創的な形とデザインを追求し続けた彼の作品は、従来の陶芸の概念を超え、多くの人々を惹きつけるとともに高い評価を受けました。しかし、1983年、突然の病によって加守田は帰らぬ人となります。その早すぎる死は多くのファンに惜しまれました。
「自分の外に無限の宇宙を見る様に、自分の中にも無限の宇宙がある」と述べ、自らの理想に向かってひたむきに作陶を続けた陶芸家・加守田章二