NO8 笠岡市竹喬美術館

NO8 笠岡市立竹喬美術館   入江波光展
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日本画家 小野竹喬の作品を展示する美術館です。
朝早くホテルを出て、9時には美術館についたのですが、怪漢は9時半なので、それまで待って、開館と同時に入り、貸切状態で、入江波光の作品を楽しみました。
 
 
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「国画創作協会展(こくがそうさくきょうかいてん)で活躍した京都の日本画家・入江波光(いりえはこう、1887-1948)の、ロマンに満ちた画業を回顧する展覧会を開催します。
 波光は明治20(1887)年に京都市に生まれ、初め四條派の森本東閣(とうかく)に学びました。明治34年京都市立美術工芸学校(美工)に入学し、同窓であった村上華岳(かがく)や榊原紫峰(しほう)と親交を結びます。同38年の美工卒業後、志願して陸軍に入隊し一年後に除隊、そののち、同40年に美工研究科に進み、42年には京都市立絵画専門学校(絵専)本科に入学して、44年に華岳、紫峰、小野竹喬、土田麦僊(ばくせん)らと卒業します。美工在学中の明治40年の第1回文展に《夕月》が入選しますが、その後の文展での活躍は認められません。また絵専卒業制作の《北野の裏の梅》は同年の第16回新古美術品展で四等を得て、竹喬や麦僊との交流が深まる契機となります。
 大正7(1918)年の国画創作協会の設立に際しては、同人となることを勧められましたが、結局、第1回国展で《降魔(ごうま)》が国画賞を受賞した翌年から同人となり、国展を代表する画家となります。仏教絵画を主とする古典絵画の徹底した研究にもとづくロマンチックな作品を前期国展に発表したのち、同11年から翌年にかけての渡欧後は、古代ローマ時代のフレスコ画の影響を受けた緑色の薄靄に包まれたような甘美な世界を描きました。昭和3(1928)年の国展解散後は画壇を離れ、教職に専念しながら水墨画の世界に練達の技を展開していきます。
 波光は、創作の画家とあると同時に美工や絵専における優れた教育者であり、また模写の第一人者でもありました。とりわけ模写として主導的立場で取り組んだ《北野天神縁起(弘安本)》や法隆寺金堂壁画六号壁《阿弥陀浄土変》を見ると、古典の妙技をその精神にまで切り込んで再現しようとする求道者の姿を認めます。
 今回の企画では、名利を求める画壇と一線を画して、東洋や西洋の絵画の本質を見極めたうえで墨戯の世界に至った澄明な波光芸術を、代表作50点と模写・素描30点により辿ろうとするものです。現代日本画が失った崇高なロマンと高度な絵画テクニックを存分に楽しんでいただければ幸いです。」
   美術館ホームページより
 
入江波光の作品をこんなに一堂に見たのは初めてで、
「降魔」の 釈迦に群がる悪魔の絵、天女の絵
そして、ヨーロッパから帰ってきたからの 森の中の子どもや母親の優しい絵、晩年の法隆寺の壁画の模写の絵 波光のいろいろな作品を見て、波光の精神性の高さを感じた。
いい展覧会で、もう1回行きたいと思う。
 
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ここには、水琴窟があってその音を聞ける中庭 中庭を眺めながら休めるいす。そして、お茶のサービスもあって素敵な美術館でした。
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しまなみ海道を巡り美術館巡りをしました。